現在の近代的国家たる「大日本帝国」が成立したのは1867年の大政奉還とその後に続く戊辰戦争によってであり、1889年の大日本帝国憲法の発布により近代国家としての体裁をなした。1893年にはアメリカ合衆国に併合されようとしていたハワイ王国を巧みな外交交渉と軍事的圧力により保護し、現在の太平洋上におけるハワイ海上帝国繁栄の礎を築いた。1894年には隣国
大清国?と朝鮮半島を巡って対立し、
日清戦争の結果勝利を収めた。この戦争と下関講和条約により、台湾、澎湖諸島、そして外地として遼東半島を得た。
その後は清への圧力をさらに強め、1905年には日清協約によって南満州鉄道の経営権、企業の優遇権、一部炭鉱の経営権を得た。1910年には開国時に結ばされた不平等条約全ての撤廃に成功し、名実ともに「世界の一等国」として世界にその名を轟かせた。同時に隣国、大韓帝国を併合し、領土とした。この併合は国内でも反対意見が根強かったものの、反対派の伊藤博文が朝鮮で暗殺されたことから国内世論は併合に傾いた。この頃から日鮮同祖論が学会の主流を占め、日本人と朝鮮人は言語が違うだけの同一の民族であるとされた。
1911年、中国で発生した辛亥革命により
大清帝国?と革命軍が内戦状態に陥った時、日本は清を保護し、満州地域へ安全に撤退する援護を行うとともに革命軍の殲滅に協力した。この結果革命軍は壊滅状態に陥り、その占領地域には日本が傀儡国として
中華民国国民政府を立てた。1921年には世界第3位の海軍力を有する国としてジュネーブ海軍軍縮会議に参加。1931年にもロンドン海軍軍縮会議に参加するなど国際協調路線を歩んでいる。この頃から日本国内には過激派の極右・極左思想が蔓延し、1923年に摂政宮裕仁親王(今上天皇)がアナーキストの難波大助により狙撃された
虎ノ門事件や、1936年2月26日に陸軍第1師団、野戦重砲兵第4旅団などの一部が帝都を占領したクーデター未遂
二・二六事件などが起こっている。後者に対して今上天皇は激怒され、「朕自ら近衛を率いて之が鎮定に当たらん」と仰ったとされる。
1930年代後半、支那大陸の奥地に「中華ソビエト共和国」と名乗る組織が現れた。彼らは内蒙古や甘粛省などの実効支配を始め、やがて支那大陸全土の支配権を主張するようになった。これを当時日本の保護国であった
中華民国に対する実質的な宣戦布告と見做した帝国政府は、1940年3月中華ソビエト共和国並びにこれを支援していると思われた
モンゴリア・トゥルク社会主義共和国?に対し宣戦布告。ここに
中華内乱?が勃発した。帝国陸軍及び中華民国陸軍は同盟軍の助けを得て順調に進軍。程なくして敵を降伏に追い込んだ。これによりモンゴル・トゥヴァ・アルタイ・ハカス等の諸地域と内蒙古は日本の勢力圏となった。また、この戦争に軍事面で多大なる貢献をした中華民国では独立志向が高揚。中華民国を信頼するに足る同盟国たり得ると判断した帝国政府は中華民国の保護国指定を解除、大東亜共栄圏での立場も準加盟国(オブザーバー)から正式な加盟国へと昇格した。また、時をほぼ同じくして
ペルシア連邦民主共和国?で内戦が発生。帝国政府は居留民保護を理由にドイツ帝国とともにペルシア領東インドへの進駐を決定した。ペルシアで成立した新政府は諸外国の強い影響力を受けていたこともあり東インド地域の割譲を承認し、ここに大日本帝国領東インドが誕生した。
1940年7月、
カルマル連合?を中心としたコミンテルン陣営が誕生した。共産主義と世界革命を掲げるこの陣営は、日本にとって重大な脅威であるとして帝国政府は大東亜共栄圏を発展解消させた新陣営、
自由主義連合?を結成して対抗することを秘密裏に決定した。密かに招待された、資本主義・反共であり民主主義である国家群により結成されたこの秘密同盟は、相互安全保障と経済援助を定めていた。しかし、この陣営の情報が
#だいたい中ア連のせいコミンテルンのスパイにより流出したことにより事態は急変する。コミンテルンは自衛戦争を掲げ自由主義連合に宣戦布告したのである。この戦争は、当時自由主義連合の構成国であった
ノヴゴロド公国?が
カルマル連合?と不可侵を締結していたことによりカルマル連合が参戦できなかったこともあり、自由主義連合優位に運んだ。1944年10月にはオスマン民国が降伏。これにより
大中央帝政連合?も降伏し、正式に世界大戦が集結した。戦後の講和会議で大日本帝国は多額の賠償金と、委任統治領カテゴリーA(当分の間保護管理下に置き、然るのち完全独立させる)として旧ドイツ領コンゴを割譲された。またこの戦争により日本は国際的な影響力を大幅に増加させることができた。