国家設定など。

ペルシア人民共和国は、イラン高原北西部を領域とする人民共和制国家である。
首都テヘラン(Tehran)
国家元首大統領 マルヤム・ラジャーヴィー(1977年〜)
国家方針親ユーラフリカ連邦、人民共和制
総人口3000万(1977年,概算値)
工業力小規模(1977年)


概要・略歴

中央アジア連邦?(テュルク連邦?の前身)の歴史

1905年以降、日露戦争でのロシア帝国の敗北を機に、西トルキスタン地方と東トルキスタン地方で別個に起きた民族自決の理念に基づく革命運動が発生した。
両者は合流し、東西トルキスタンの統一を目指して革命を成し遂げ、1921年2月、ついに独立を果たした。
建国当初は平和主義を掲げ、民族の平和と世界平和の両立を模索していたが、1930年代になってトルコ・ペルシアの両地域において社会主義政権が成立したのを受けて方針を転換し、建国時の民族主義的革命を社会主義革命だと捉え直す形でイデオロギーをすり替えると言う荒技を成し遂げた。
これは民族主義的革命の指導者の後継者であり社会主義時代の中ア連の初代書記長でもあるアブドゥラウフ・フィトラトが過去に他国で社会主義政権下での国家運営を経験した時の知識などを生かしたものであり、この革新的な転換は中ア連の柔軟な内政運営を象徴するものであると解釈できよう。
1930年代中頃、トルコ・ペルシアとの間でバクー条約機構?を立ち上げた。

1939年秋、国際情勢の複雑化などによる中ア連への大戦の影響を少しでも軽減するべく(中の人の低浮上化によるものだが)、社会主義体制を緩やかに廃止して中道民主資本主義国に戻そうという計画が承認された。「中ア連ボーナスチェスト化計画」と称し、すべての国に開かれた資源地帯をなすことを目標とするようだ。

1940年2月末、この計画は実行にうつされ、また労働者中央委員会において国家方針の変更が正式に決定された。これを機に我が国は「世界の資源庫」として歩み出すこととなる。
また同時に労働者中央委員会の解散が決まり、中ア連連邦議会が復活した。上下院から成り、定員は約260人である。
この前後で次期の大統領が選出された。あらゆる方法を用いて全ての階層から支持を取り付けて圧勝したその男の名はフォスフォル=フィストィグィと言う。彼は外交方針の大胆な転換を行うが、この性急な改革がのちに中ア連の首を締めることとなるのであった。

1940年3月末、大日本帝国?とともに中華ソビエト共和国に宣戦を布告した。この時期から中ア連は日本への接近をさらに強めていくこととなる。
この戦争によって我が国は寧夏回族自治区の保護権を獲得した。

1940年の中ごろ、ペルシア内戦を端緒とする周辺諸国のペルシア分割が発生。中ア連政府は当初これを静観し・中立の立場をとっていたが、安全保障に関する懸念になりかねないとしてイラン方面・アフガン方面に派兵。
一時イラン北東部とアフガニスタン北半を実効支配したが、対面するインド共和国?に敵対心がないことを知り撤退、最終的にイラン・アフガンのトルクメン人居住地のみを併合し、その他の地域を全てインド共和国?に割譲した。割譲した領土にはタジキスタン東部のバダフシャン地方も含まれている。
その後、残りのタジク四郡を「タジク共和国」として中ア連に再編入したが、政府はこれを中ア連とは別個の国として扱う方針を打ち立て、議会でも可決された。対外的には「タジク共和国」は中ア連の一部である、としている。現世における中国と台湾との関係にも似ている。

その後1940年10月ごろに種々の協議を行い、カイバル峠とカシミール地方を囲む4カ国の包括的同盟、カイバル同盟?が成立した。これを以てペルシア内戦に端を発したペルシア問題はひとまず収集がついたと言えるだろう。

そして1940年12月、我が国の情報統制部門が大戦犯行為を働くこととなった。事もあろうに我が国の外務省がオスマン民主国に対して機密情報を開示してしまったのである。オスマン民主国は抗議のためにこれを全国際社会に公開。連合諸国の安全保障を脅かすのみならず、他の仮想敵国に対しても拭いきれない禍根を残すこととなった。国内では当然不満も広がったが、民衆の間ではまだオスマン民主共和国?内のトルコ人に対する同胞意識も根強く、大統領は支持率低下を免れた。つくづく幸運な男である。

1941年に始まった第一次世界大戦?には、自由主義連合?の一員として参戦。正規軍を大きく動かすことこそなかったものの、西アジア地域で抑圧されている諸民族の解放を手伝い、オスマン民主共和国?と敵対した。
1944年、第一次世界大戦?が終結すると、かねてから計画されていたペルシアとの連合が推し進められ、トルキスタン=ペルシア二重連邦?が成立した。中ア連もその構成国家となった。

ペルシア連邦民主人民共和国?及びペルシア連邦民主共和国?(ペルシア連邦?の前身)の歴史

(ここより前は正史通り)
18世紀中ごろより、ゼンド朝がペルシャを治め周辺のデュラニ朝アフガニスタンやバルチスタンを征服し、
またアラビア海のポルトガル勢力を撃退し海上帝国化を推し進めた。
この際にインドの3港とタミル・セイロンを獲得した。
この勢力は18世紀末にカジャール朝に置き換わっても衰えることなく、1812〜1816には東インドも手中に納めた。
このころには国内の工業化も推し進め始めた。
また、    との戦争で大ロン・ロシアと協力し、中国地域にも2つの港や鉄道利権を獲得することが出来た。
東アフリカ植民地を獲得したのもこの頃だ。
さらに外洋に進出、マリアナ諸島など太平洋上にも進出した。
その勢力の大きさより、西アジアにおいてオスマンと双璧を成す存在とまでなりました。
しかし、ロシアの圧力が増してくると、ロシアによりペルシャは北方の領土を喪失した。
ただ、 年のロシア革命によりロシアは弱体化、ロシア帝国に反旗をあげた中央アジア連邦?とともにロシア帝国の勢力を撃退、北部アフガンと南タジクをロシア帝国より返上した。
しかしその後、ロシア革命と連鎖する形で、敗走したボリシェヴィキとともにペルシア共産党によりペルシャ南部やアフガン地域よりペルシャ革命が勃発、
1919年にペルシア連邦民主人民共和国が発足した。
また中央アジア連邦?建国時には、後方より中央アジアを支援し、代わりに南タジクを獲得した。
同じイデオロギーながらアゼルバイジャン問題で対立していたオスマン社会主義人民共和国?とは、
アゼルバイジャン独立を互いが承認することで関係回復を図った。

1940年の春、共産主義体制からの転換を求め、自由主義者や帝政主義者など多数の勢力が蜂起し、ペルシア内戦が起こった。
この内戦によって多数の国家から干渉を受け、内戦終結後には領土が大きく減少し、海外領の一部も失った。
内戦後は主に中央アジア連邦?インド共和国?の支援によって復興が進められている。
なお、内戦終結後に国名が変更され、「ペルシア連邦民主共和国」となった。
1944年、第一次世界大戦?が終結すると、かねてから計画されていた中ア連との連合が推し進められ、トルキスタン=ペルシア二重連邦?が成立した。ペルシアもその構成国家となった。

トルキスタン=ペルシア二重連邦の歴史

1944年、第一次世界大戦?が終結すると、かねてから計画されていた中ア連とペルシアとの連合が推し進められ、トルキスタン=ペルシア二重連邦?が成立した。
その後しばらくしてアゼルバイジャン共和国を併合した。またナゴルノ=カラバフ地域をアルメニアに返還した。
クルド人問題にも再びメスを入れ、クルド人が優勢な地域の全てを「クルド人の人権を蔑ろにしない」という条件付きでオスマン民主共和国?に譲渡した。
また近年台頭してきたボリシェヴィキを最大の脅威と捉え、北部のインフラを一時的に破壊するなど不断に戦争の準備をしている。

テュルク=ペルシア二重連邦

1948年の一連の革命によってソヴィエト・ロシアが滅亡し、「ロシア・ツァーリ帝国」となった。
同時に、ソヴィエト・ロシアの影響下にあったアナトリア及びクルディスタンがトルキスタン=ペルシア二重連邦?に譲渡された。
その後改称して「テュルク=ペルシア二重連邦」となった二重連邦は、「ロシア・ツァーリ帝国」と不可侵条約を締結し、バクー条約機構?にも招待した。
同時期に共産主義体制をとり始めたフランスが仏領シリアから侵攻してくることを想定し、アナトリア南東部の防御を固める必要に迫られることとなる。
5月13日、ロシア・フランス・レーテ・二重連邦の四カ国でロストフ戦略会議?を立ち上げた。
同じタイミングでモンゴルとも正式に同盟した。
6月、外交関係の多角化を図りユーラシア連邦とも不可侵条約を締結した。ユ連がフォスフォス記念大橋の建設を始めるのもこの頃である。
8月、ユ連統治下のパレスチナでワッハーブ派住民2万人が強制移送される事件が起こった。
さらにしばらくしてアメリカ連邦の動きが活発になり始める。
9月、ペルシャ湾の石油を求めてアメリカ連邦が二重連邦・イラクに宣戦布告。(当該地域はイタリアによって実効支配されていた)
その後戦争は終結し、比較的平和な時代が訪れた。
(この間中の人が受験期にあったため情報が少なく、また世界の全体的な動きが停滞していた。)
1968年、タジク人のボボジャン=ガフールが連合評議会代表になった。
1969年、寧夏を中華民国に返還したことを確認した。

現在も安定した発展を見せているが、危機はまだ完全に去ったわけではない。

中央アジア戦争

1976年9月9日、ハヤスタン人民共和国、シベリア・ソビエト社会主義連邦共和国、英国が領域内に侵入。中央アジア戦争が始まった。軍部が無抵抗・無血降伏を選択したため2か月でペルシャ以外の全領域を失い、カスピ海との接続も失われた。

第二次中央アジア戦争

内政

政治体制について

人民共和制をとる。

地理

ペルシア人民共和国の版図は小規模である。
概してイラン高原に大別できる。

人口

1977年時点の推定人口は3000万人である。

言語・文化

共通語はペルシア語及びドイツ語である。
公用語の一覧
公用語
ペルシア語・ドイツ語

外交

ユーラフリカ連邦とシベリア連邦に準ずる。

軍事

軍備保有は禁止されている。世界評議会共和国連合軍の防衛下にある。

外部リンク

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